平賀同様、書くことが何も見つからないのだけれど、悲しい(?)習性で、「陰のリーダーの次は、やっぱ真のリーダーの番でしょう…。」という気持ちが湧いてしまうのが不思議(笑)。
月命日、みんなが線香花火の華を咲かせた頃、僕らは線香をあげ天野と語らいました。
いろんな所でNSPの歌が唄われ、天野への思いを語らってくれていること、報告しました。律儀なあいつは、きっと燃えかす拾う係をやったことでしょう。
人それぞれ、いろんな思いがあると思う…。その人なりのスタイルで良いんだよ。
あいつと語らってください。きっと笑顔が…ね。
フォトメ史上最短のメッセージでごめんね(笑)!

8月4日  中村 貴之

 

 



 

★ 2005年8月1日(月)

重松 清さん、ありがとう!!
7月29日(金)の夕刊フジ。著名人による日替わりエッセイ・コーナー「オヤジの細道」で、重松さんが「さよなら、NSP」と題したエッセイを掲載してくれています。感謝その一、「ビタミンF」で直木賞を受賞した重松清さんが大のNSPファンであるということは生前、天野から聞いていましたが、どれくらいのファンなのかは定かではなく、逆に天野に「重松清って知ってる?きっと平賀好きだぞ!」と薦められ、すっかりハマッテしまったのでした(笑)。今回の重松さんのエッセイで、本当にNSPの大ファンだったということを改めて知ることが出来たし、「さようなら、NSP」ではなくて「さよなら、NSP」と、何だかとってもNSPを身近に感じていてくれたひとりだったんだなと驚きと感激でいっぱいです。まるで愛を告白されたようで目茶苦茶照れてしまいます。「ヘタレなマイ青春を彩ってくれて感謝・・・」と重松さん。天野がますます照れますよ。「いやいや、こちらこそNSPのメンバーに影響を与えてくれてありがとうございます」と。感謝その二、今日はその・・・書くことがないのと(笑)・・・重松清さんに一番影響を受けてしまった僕の2002年NSPパンフレット用の文章を改めて掲載しようと思います。重松さんの本がきっかけで文章の面白さを知ったような気がしています。天野に「重松清になりきって書いてみました」と送った2002年NSPパンフ用の文章。それを読んだ天野が後日、笑いながら「ひらがあ、面白いよ〜、面白いけど最後のオチはカットするよ、別にこれは岩手用じゃないからさあ」と。2002年7月以降どこかの会場で買って何度も何度も読んだ方々には申し訳ありませんが是非こんなオチだったんだと再度付き合って頂けたら幸いです。

 

 

 

★ NSPパンフレット用
父を亡くして3年になる。未だピンと来ない。ずっと田舎で元気にしている、そんな思いが今も、そしてこの瞬間も強くて自分自身困ってしまうほどだ。それは多分、中学を卒業して高専時代の5年間を下宿生活、そして高専卒業後はNSPに本腰を入れる為、即上京と15才以降一緒に暮らしたことがなかったからなんだと思う。姉から「あぶないみたい」という電話があった翌日、駆けつけた入院先で僕の顔を見た瞬間に「おう」と、父のうれしそうでいて、恥ずかしそうなあの表情は忘れられない。そして僕の目の前で、決してうまいはずのない病院の食事を、心配するな、こんなに元気だぞと云わんばかりにおいしそうに食べたざるそばが最後の食事になったことも。僕はそばもうどんも大好きだ。自分が何か会社を興す時には会社名は「ソバードン」(そば・うどん)と決めているくらいだから。父が亡くなってから、そば屋でざるそばを注文することがなくなった。父の葬儀の日が母の誕生日と重なった。田舎の儀式は夜遅くまで続く。酒のせいもあったのか僕は何かの拍子に突然「皆さん、今日は母の誕生日でもあります。ご一緒にどうぞ!」とハッピーバースデー〜と歌い出した。最初のうちは回りのみんなも、ここの長男も狂ったかというような顔で見ていたが、理由がわかってからは大合唱、そして祭壇の前で母を囲んで記念撮影と、すっかり父の影は薄くなっていた。この葬儀は今も田舎では語り草になっているようだ。忘れられない想い出の日となった。父は本当に“お人好し”だ。自分の人生よりも僕の人生を最優先してくれた父に何と言ったらいいのか・・・言葉では言い尽くせない。でも今もこんなに幸せでいられるのはその“お人好し”のお陰だと感謝している。そして僕もその性格を間違いなく受け継いでしまったと最近とみに実感している。
こいつら本当に大丈夫なのか!? 
21世紀に完全復活を宣言、東京・大阪のコンサートも近づいているというのに天野は依然として歌詞は忘れるわギターは間違えるわ、中村に至っては音楽以前の問題で、どうしたんだ!?そのしわくちゃな顔?NSPの野口五郎と騒がれていたあの中村はどこへ行ってしまったんだ?と自分のことはすっかり棚に上げて少し苛立っていた。復活を後悔した。しかし他の二人の間では、僕の髪の毛が問題になっていた。確かに薄くはなったが、無くはない。いつ頃からだろう。ポニーキャニオンにお世話になって以来短距離ランナーのように全力疾走で駆け抜けて来た15年間、気づかなかった。考えても“覆水盆に返らず”だ。公私ともに悩みや苦労は他の二人だって少なからずあったはずだ。特に二人は経営者だったりするのだ、なのに昔どおりフサフサ。遺伝?家系?この時ばかりは少し父と母を恨んだ。
確か松山千春が言ってたな。ロン毛の頃は前髪が目に入るたびに邪魔で邪魔で忌まわしいと思っていたけど今は落ちている髪の毛を見るといとおしいと思う、と。そんなこんなで
天野のホメ殺しにも合い、仕方なく、でも似合うから帽子を被ることにした(笑)。特にキャップは似合う!さすがにコンサートが近づくにつれ、三人の顔つきも変化してきた。一番驚いたのは中村の変り様だ。すっかりアーティストの顔に戻っている。髪型も変え、NSPの野口五郎というよりはNSPの木村拓哉というところか。天野もいい感じでピリピリしてきた。この二人とならやっぱりずっとやって行きたいなという気持ちになれた自分がうれしかった。「誰かが死ぬまでずっと続けます」と宣言してしまったNSPだが、天野と中村は覚えているだろうか。僕が昔から「ハゲたらアーティストやめるよ」と言ってたことを。ハゲるが先か死ぬのが先か!自分の中でもおもしろい戦いになりそうだ。NSPの鍵は僕が握っている、と思っていよう。
東京・大阪の復活コンサートは予想以上の成功と反響を呼んだようだ。東京のコンサートで「平賀く〜ん、帽子取ってぇ〜」の答えに詰まってしまい、大阪のコンサートでは「ズボンじゃダメェ〜」と切り返す用意をしていたのに声はかからなかった。雪辱は果たせなかった。危なく誰かが泣き出してステージから袖に引っ込んでしまった時には「解散コンサートに変更か!?」と一瞬思ったけど何とか持ち直して事なきを得た。お願いだから、もう泣かないでほしい。僕がハゲるか死ぬまで取っておいてほしい。いよいよ7月6日の地元、岩手でのコンサートを皮切りに秋が深まる季節までのツアーが始まる。解散もなければ復活もなかったNSPの新たな挑戦の始まりでもある。「ソバードン」もいいが「NSP」はもっといい。最高のやりがいが出来たようなものだ。僕の目標はでかい。「NSPの100歳記念コンサート」だ。今から皆んなに予約しておいてほしい、ボケる前に・・・。
岩手のコンサートは僕の「浴衣姿でセクシーポーズよろしく!!」という無責任発言が波紋を呼びファンの人達の間では大変な盛り上がりを見せているようだ(笑)。ステージに立った僕が浴衣姿の皆んなを見て、うれしそうでいて、ちょっと恥ずかしそうな表情をしたら、「お父さん、そっくり!」と叫んでほしい。僕も誰かさんみたいにコンサートで泣いてみたいから。

2002年6月吉日  平賀和人

 

 



感謝その三、「さよなら、NSP」と何気に優しくきっぱりと言って下さった重松さん、ありがとうございます!天野がとっても喜んでいますよ。